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第8話 風景を考える

第8話 風景を考える

「untitled」( 1999年、Gallery・DOT) (c) Atsushi Takahara 

おはようございます。
 今週はスリリングな一週間でした。昨日の大雨により、社内でもいろいろなことが起こっていました。取材を延期した人もいれば、取材先から戻ってこれない人もいた。年に何度かはこういうことがあると考えるべきですね。何となく、非日常的な風景が広がっていたような感じがします。
 今、僕は「風景」という言葉を使いましたが、特に違和感は感じられなかったと思います。日常風景、授業風景、作業風景……。いろいろな使い方がありますよね。今日は謎の多い言葉「風景」について考えてみましょう。

客観と主観が混じり合う世界

僕は「風景」という言葉を多用するほうではないかと思います。
 正直に言うと、自分は風景写真家だと考えています。風景を撮っているというだけではなく、風景を認識しながら撮っている。ただ、「僕は風景写真家です」と積極的に名乗ることはありません。どんな写真を撮っているのか説明するとき、「風景を撮っています」という言い方をすることはあります。
 「どっちでもいいじゃないか」と言われそうですね。
 僕が些細なところにこだわっているのには理由があります。それは、日本では「風景写真」というと、「自然写真」に近いイメージを抱いている人が多いのです。僕らはふだん「自然」とは違った意味で、「○○風景」という言葉を当たり前のように使っているはず。それなのに「風景写真」に関しては、「自然の景観を撮影したもの」と思い込んでしまっている人が多い。自然写真と風景写真は区別すべきものではないかと僕は考えています。
 風景とは「目に見える様子、景色」のこと。景はもともと「光」という意味だそうです。つまり、風と光によって目の前に広がる景色は変化している……。実に味わい深い言葉ですね。
 風景に近い言葉としては、景色、景観、光景などが挙げられるでしょう。あくまでも僕個人の言葉の捉え方ではありますが、景色や景観は客観的な言葉であるような気がします。どちらの言葉にも、個人の主観が入り込む余地がないように思えるのです。
 一方、光景の場合は、主観が入り込むことが多い。ですから、僕の中では風景に近いものというイメージがあります。光景と風景との違いはどこか? 光景はどちらかというと、瞬間的なものであるという点でしょうか。数秒、ときには数時間続く光景もあるでしょうが、それ以上時間を引き延ばすことは困難な言葉であるような気がします。逆に、風景のほうが時間の幅が広い。瞬間的な風景もありますが、数10年、数100年単位の風景もあるでしょう。

範囲が広すぎるゆえに捉えどころにない言葉のように思える「風景」。しかし、この捉えどころのなさが、実は風景のおもしろいところではないかと僕は考えています。
 風景あるいは光景は、主観でも客観でもない。両方が混じり合っているというところにおもしろさがある。自分の目の前に広がっている風景は、確かにその場に存在するもの。とはいえ、それが自分の目には客観的な景色として映っているわけではありません。必ず、自分の主観が混じっている。
 ですから、厳密に言えば、自然写真であっても撮影者の主観が完全に排除されているわけではないと考えるべきでしょう。しかし、自然写真家は自分の主観が許容範囲を超えて混じり込まないよう、注意深く撮影しているはずです。できるだけ、自然そのものを再現しようとする。
 一方、僕の考える「風景写真」の場合は、自分の個人的な解釈や感情が写り込んでも構わないという立場です。そうした立場が鮮明になっていくと、写真はどんどん表現主義的、あるいは主観的になっていきます。1950年代、リアリズム写真全盛の時代に、主観主義写真が提唱されたこともありました。
 どちらが正しいとか優れているということではありません。写真家が何を写真として残したいのか? それだけの違いです。
 僕は同じ景色を見ても、一人ひとり異なる風景を見ているという点に興味を持つようになりました。建物を見ても、人物を見ても、料理を見ても、自分と他人とでは違った見え方をしている。それはどのような理由からなのか? そうしてたどり着いた結論が「視覚体験の違い」でした。

写真はカメラという機械に依存する表現手段であるため、自分の主観を前面に押し出して写真に撮ることは、不可能ではないものの非常に困難なこと。無理に主観100%にしようとすると、技術や意図が見え見えになってしまうことがあります。意図そのものに価値がある場合は別ですが、客観と主観の入り交じっているところに写真の価値がある。意図を明確にしすぎず、半分謎のままの残しておく。感情をストレートに表現するのではなく、風と光による描写の中に紛れ込ませる。
 僕の場合は、そのような撮り方をすることが多いですし、写真作品を味わう際にも、風景の中に紛れ込んでいる何かを探そうとする傾向があります。写真はどのように味わってもよいのですが、かすかに伝わってくる撮影者の意図や感情の揺れといったものをキャッチできれば、写真を見る愉しみは増していくことでしょう。
 大自然も、自宅の庭も、会社の中も、街中も、すべてが「風景」。僕は人物ですら、「風景」と認識してしまうことがあって、たまにひんしゅくを買うことがあります。 

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