「セルフポートレート」( 1991年) (c) Atsushi Takahara
おはようございます。
写真鑑賞力について、ずっと考え続けています。もちろん、昨日一日ちゃんと仕事をしていますが、心のどこかに写真鑑賞力がある。そして、思ったのです。僕らの仕事すべてについて、同じ構図が当てはまるに違いない。そう確信しました。
写真鑑賞力とは、情報受信力とほぼ同じもの。
我が社は情報発信を主要業務のひとつとしています。とりわけ、雑誌づくりに携わっている人には、情報発信力が求められます。編集者は文章力を使って情報発信し、デザイナーなデザイン力で、フォトグラファーは写真表現力で情報発信している。
雑誌に登場する取材先の方々も、僕らとまったく同じ。木工作家も料理人も画家も農業者も企業経営者も、各分野に必要な「○○力」を最大限発揮し、仕事を通じて情報発信しています。生み出された商品や作品が彼らにとっての情報発信ツールとなる。商品や作品を購入し、使ったり、食べたり、鑑賞したりすることによって、作り手のメッセージを受け取ることになるわけです。
したがって、情報の受け手(読者、消費者、鑑賞者)の受信感度といったものが、作り手の表現力と同じくらい重要な意味を持つのではないか? 情報発信力と情報受信力が重なり合うと、そこに意味とか価値が生まれてくる。しかし、情報受信力が低かったり、一致点がほとんどないと、どんなに素晴らしい情報発信活動を行っても価値が感じられない。
受信レベルの高低という問題ではなく、関心の方向性ということだと思います。芸術にはすぐれた情報受信力を発揮するものの、食べ物にはまったく無頓着という人もいるでしょう。
それでも、何かをきっかけに食べ物の味や安全性といったことに、目覚める可能性があります。目覚める瞬間は、いつ何時やってくるかわかりません。
僕ら、情報発信者は自分の仕事を通じた情報発信活動に加え、目覚めを促すための啓蒙活動を行うべきではないか? そんなことを考えています。
前置きが長くなりました。今日の本題は「楽しみと愉しみ」です。同じ「たのしみ」ではありますが、両者にはずいぶん違いがあるように思います。
外的要因と心の充実
僕が写真を撮るようになったのは、1977年4月からのことです。自分でもびっくり。もう40年以上たっているんですね。40年たつというのに、大して進歩していないなぁ……というのが正直な感想です。技法としては何度も変わりましたが、撮ろうと思っているものも、表現したい世界もずっと変わっていません。今は雑誌「スロウ」を通じて発表することが多いので、伝わりやすい表現方法を心がけています。
1977年から今日まで、僕は写真を撮ることが「楽しい」と思ったことはただの一度もありません。これは写真が嫌いなわけでも、苦しいわけでもないのです。写真はずっと好きですし、自分の人生の中心に位置しているもの。けれども、僕は撮ることが楽しいから撮るわけではない。撮影の動機は別なところにあるのではないか? 写真の世界にのめり込んでいった1977年から、学生時代の終わり(1985年3月)までずっとこのことについて考え続けていました。
1985年、人並みに一般企業に就職し、僕はようやく理解することができました。写真を撮る時間が激減したのです。このときばかりは「苦しい」という気持ちになりました。僕の感じた苦しみは、息苦しさのようなもの。大袈裟に言えば、写真を撮るという活動は僕にとって「呼吸のようなもの」だったのです。呼吸することが楽しいという人は滅多にいないでしょう? だから、僕も撮影することが楽しいと感じなかったのだと思います。
「楽」の字の成り立ちは、「鈴の形」から来ているそうです。鈴を鳴らして神様を呼び、楽しませた……というのが「楽」という文字の由来。僕らも日々の生活を楽しんでいるわけですが、その理由を考えると、外的要因であることがわかってきます。おいしいものを食べて楽しい、会話が弾んで楽しい、一緒に仕事ができて楽しい。外との関わりの中から、楽しいという気持ちが湧いてくるのです。
「写真を楽しめない自分は、人間として欠陥があるのではないか」と考えていた時期がありました。これは記念写真をまったく撮らなかった時期と重なります。僕は記念写真を撮る理由がわからなかった(今はもちろんわかります)。どこかがちょっと病んでいたのでしょうね。
僕の感覚としては、写真を撮ることによって精神のバランスを保っているようなところがありました。で、あるとき気づいたのです。
「たのしい」には、「楽しい」のほかに「愉しい」がある。
「愉」のほうはどのような成り立ちかというと、「癒」に近いそうなんですね。病が癒えたり、心が安らぐようなイメージ。「これだ!」と思いました。僕が写真に求めているものは、心の充実だったのです。
ですから、僕も実は「写真をたのしんでいた!」。今なら、そう確信を持って言うことができます。そう思えるまで、30年以上もかかってしまいました。「楽しい」というのも大いにけっこうだと思いますが、「愉しい」も実に味わい深いものです。
僕はおいしい料理は楽しくいただき、写真は愉しく撮るようにしています。そして、料理からもときどき「愉しさ」を感じ取っている。だいぶバランスがとれてきたように感じます。
僕は写真を撮りながら、考えたり、イメージしたり、自己分析しています。たぶん、多くの写真家もそのようにしているのではないでしょうか? そこには「楽しい」という感覚はあまりなく、求道的な気持ちのほうが強いに違いありません。
写真作品を鑑賞するときも同様。作品の中から何かを見いだそうとしています。やはり楽しむことはなく、愉しみを求める傾向にある。たぶん、僕は写真的アプローチで物事を考えることが好きなのでしょう。それがどのようなアプローチ法なのかについては、おいおい述べていきたいと思います。
写真をもっとたのしみたい……。そうお考えの人には、「楽しむ」のほかに「愉しむ」方法を身につけることをおすすめします。そうすると、見えなかったものが見え、目の前の世界が開けてくるのです。